色がつく

世界には芸術、美術の学校があり、
日本にも美術やアートを学ぶ機関や施設が多く存在します。

その中で、私は高校、大学は美術を学ぶ学校を選び、進学しました。

選択した学校には、「受験」があり、
学校が出題する課題にパスしなければ、入学が許可されません。

課題には、例年の傾向があるので、
パスするためのトレーニングを行います。

主なトレーニングメニューは、

・デッサン

・限られた時間内に美術作品を制作すること

・出題される「テーマ」について、出題者の求める適切な「答え」を提示すること

これらを鍛錬し、「受験」に臨みます。

トレーニングですから、トレーナーが存在し、
制作する作品に手を加えては、「課題」に対応できるための指導をおこなっていきます。

指導者は「受験」に対応するためのオリジナルメソッドを持っています。

指導者のいる組織に所属することで、受験を攻略するためにデザインされたメソッドを受けるのです。

学生時代、自分の制作している作品に、指導者から多くの手が加えらえることに当初は驚き、困惑しました。

作品って、プライベートなもので、自分で生み出すものだと思っていたから。

指導者の手を入れられる度に、自分の境界線をまたいで入ってこられたような気がして戸惑いました。

しかし戸惑う反面、自分にはなかった、ものを見る時の捉え方や、
多角的な視点を持つきっかけを得ることがあったのは確かです。

今でも自分の作品に手を入れられることには抵抗があるし、嫌悪感を感じますが、過去に受けてきた経験が、自分にとって正解かどうかは、もうどうでもいい事だと思っています。

それは、今に至るプロセスとして淡々と捉えています。

時に、親御さんから

「我が子は以前から絵が好きだから、絵を教えてほしい。」

「受験科目の対策が必要なので、絵の勉強をさせてほしい。」

「我が子には講師の「色」をつけてほしくない。」

(↑ここでの「色」は「手練れ」とも言い表せるものでしょうか)

様々なご要望をいただきます。

過去に関わってきた、こどもを対象にした美術教室では、「受験」対応型メソッドを持つ指導経験者としての知見で、こども達と関わる方や、いわゆる「手練れ」をこども達に示して、こども達との関係性を築こうとする方、こども達の作品を、自分の成果物かのように扱っている方など、様々な風景を見てきました。

そんなご要望や、風景と出会うたび、自分はどういう立場でこども達と関わっていくのかを考え、自分と対話して向き合うようにしています。

こども達に対する態度に、どんな「正解」があるのか、「答え」を探す時もあるのですが、今はとりあえず、

こども達の尊さに、自分の無能さを噛み締め、ただただ、こども達の邪魔にならないよう、

自分らしい表現ができる場所を提供することしかできないんじゃないかと、
考えている次第です。


コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です